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井上寿恵男さん




       山本 皓造
井上寿恵男さん
1991年諫早駅での井上寿恵男さん
井上寿恵男さんといっても、知る人は少ないだろう。

伊東静雄の実弟である。その寿恵男さんが、先日亡くなった。諌早の紀元書房の上村さんがメールで知らせてくれた。

はじめてお会いしてから、毎年の年賀状には、楷書で丁寧な返事をいただいた。それが1999年からふっつりと途絶えた。昨年の菜の花忌にも出席されなかった。ご病気かと案じながら消息がわからぬままに、訃報を聞いた。

寿恵男さんとは1991年にはじめて、そしてただその一度だけ、お会いした。そのときには静雄の生家や、伊東家の墓地や、諫早公園の詩碑を、案内していただいた。ゆるゆると歩きながら、兄のこと、その大阪での下宿のこと、酒井百合子さんのこと、諫早の町のことを、次々と語り続けられた。諌早の駅で昼食にドーナツを食べた。長崎からの電車賃、タクシー代、ささやかな昼食、そのすべてに寿恵男さんは、頑としてぼくの財布を一切開かせなかった。

寿恵男さんは文筆の人ではない。今手もとに、94年に出版された『映画への思い出』という本がある。寿恵男さんは映画人である。大学卒業後東映の文化映画部に入社し、「医者のいない村」「働く少年少女」を制作、昭和15年に各社のニュース・文化映画部が合併させられて「日本映画社」になり、ここで日本映画史に残る「泰緬鉄道建設記録」を監督・制作された。このフィルムは空襲や、終戦時陸軍省による焼却等ですべて失われた。戦後は長崎で、しばしば占領軍から禁止命令をうけながら、原爆の被害を記録映画として残すことに情熱を傾けられた。

硬骨の人であり、同時に心くばりのこまやかな、優しい人であった。寿恵男さんは、兄の静雄の詩業に劣らぬ、立派な仕事を遺されたと思う。

ぼくがはじめて「昭和文学研究」に「伊東静雄の住居」という文を出してもらい、寿恵男さんにも見てもらった。後日、堺の伊東家にお邪魔したとき、花子夫人は「寿恵男から電話がありましてね、あなたの文章を読んで、泣いた、と言ってました」と話してくださった。「あの寿恵男が、ですよ」と。寿恵男さんには、兄貴の早すぎた死や、幼時からの思い出に、ひとり胸に迫るものがあったのであろう。しかしまたそれは花子夫人と寿恵男さんからの、ぼくの仕事への、考えられないような褒辞でもあった。ぼくも、泣きたいほど、嬉しかった。

                   筆者紹介 1954年 大阪府立住吉高校卒業
                        1958年 京都大学経済学部卒業
                        著 書 *伊東静雄と大阪/京都 
                            *伊東静雄の詩的出発
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