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故郷・諫早いさはや

諌早市

諫早市
諫早市人口 男 64,833人 女 72,983人
 合計 137,816人 (平成28年3月1日現在)

諫早市長崎県の中央部に位置し、東有明海(写真右側)、西大村 湾(写真左上部)南は橘湾(写真左下部)と性格が異なる三つの海に囲まれ、戦国時代から行われてきた干拓事業(写真中央から右側)による農地や広大な平野が広がり山海の幸に恵まれた田園都市である。

諫早公園遠望
諫早公園遠望













市内を流れる本明川
諫早市内を流れる本明川ほんみょうがわ



諫早高校内の御書院
諫早家寄贈の諫早高校内にある御書院




水害前の本明川
水害前の本明川に架っていた眼鏡橋

水害後の本明川
昭和32年の諫早水害で本明川から
諫早公園に移されている眼鏡橋












三好達治選・揮毫の静雄文学碑
諫早公園の静雄文学碑
(三好達治選・揮毫)





有明海の干潟
有明海の干潟


お地蔵祠
実家付近のお地蔵祠
幼少静雄がよく遊んだ場所




諌早市厚生町の実家
諫早市厚生町の実家

解体中の実家
平成15年解体中の実家

棟柱
棟柱 大正11年建築
家主 伊藤(東)惣吉(父) とある


静雄の勉強部屋(二階)
静雄の勉強部屋(二階)

実家の二階の部屋
実家二階の部屋

北余部の居住付近
昭和21年2月大阪府南河内郡
黒山村北余部407の居住付近















































「夕映」に詠まれる石像
同上北余部の祠「夕映」に
詠まれる石像


住吉高校門
住吉高校門

松虫通の文学碑
大阪松虫通りの静雄文学碑

松虫通の文学碑


菜の花忌で挨拶する江川ミキ氏
菜の花忌での挨拶
江川ミキ氏(静雄実姉)


碑前の林富士馬氏
碑前での林 富士馬氏

案内板
諫早公園入口の伊東静雄詩碑案内
             望郷の詩人ー伊東静雄

故郷諫早に帰って小説を書きたい。伊東静雄の願いであった。望郷の思いむなしく大阪の地で四十七歳静雄は逝った。没後五十年その作品は、日本語の響きの華麗さと思索の深さで珠玉の詩篇は色あせることはない。諫早の風土から生まれた稀有な詩人が残した作品は人の心の中に生き続ける。

伊東静雄の詩にふれた、萩原朔太郎は「僕はこの失われたリリシズムを発見し、日本に尚一人の詩人があることを知り胸の躍るような強い悦びと希望をおぼえた。これこそ真に心の歌を持っているところの、真の本質的な抒情詩人であった。伊東君の詩を始めて見た時、僕は島崎藤村氏の詩を読むような思ひがした」と激賞した。それは詩人伊東静雄が「わがひとに与ふる哀歌」の第一詩集を発刊した昭和十年のことである。
当時の詩壇に朔太郎の推挽は、大きな旋風を巻き起こした。

伊東静雄は、明治三十九年十二月長崎県北高来郡諫早町(現諌早市)船越名四二七番地(現厚生町)で生まれた。父・伊東惣吉、母・ハツ(旧姓内田)の四男として誕生、三人の兄はすべて早世し、姉ミキ(江川家に嫁ぐ)妹りつ、弟寿恵男、父惣吉は榎並家より伊東家の養子になった人である。(姉の江川ミキは、諫早市政、婦人会の発展に多大な貢献をなし、市民から慕われた。)静雄は諌早小学校を卒業し大正八年、県立大村中学校に入学した。汽車通学であった。松の木が立ち並ぶ本明川沿いの眼鏡橋、四面神社の前を通って諫早駅まで歩いた。行きかえり本明川の白き水の流れを眺めることは少年静雄の楽しみであった。

       なれとわれ

     新妻にして見すべかりし
     わがふるさとに
     汝(なれ)を伴ひけふ来れば
     十歳を経たり

     いまははや 汝(な)が傍らの
     童(わらべ)さび愛(かな)しきものに
     わが指さしていふ
     なつかしき山と河の名

     走り出る吾子(あこ)に後れて
     夏草の道往く なれとわれ
     歳月は過ぎてののちに
     ただ老の思に似たり 


結婚後十年の昭和十七年、静雄は大阪より始めて妻子を伴い帰省し、自分の郷里諌早を見せた時の作品である。なつかしき山は秀峰多良岳であり、河の名は母なる川、本明川である。

大正十二年、大村中学四年終了し第五学年を飛び越えて佐賀高等学校に入学したこの頃から島木赤彦の短歌を愛読、文学への興味を持つようになっていった。大正十五年、京都帝国大学文学部国文科入学をはたし、青春の舞台は京都に移ることになる。ドイツの詩人ヘルダーリンに魅かれ影響をうけ、チェーホフ、ゴーリキーなどのロシアの小説を読みふけった。この頃、同志社専門学校高等商業部生の市川一郎(市川森一氏の父)の紹介で文学青年宮本新治と昵懇に付き合うようになる。宮本は静雄のことを「いい男」と題して同校の会誌に発表している。

        いい男

     彼は
     地味な男でござる
     頭の大きい男でござる
     柄は小さいがひげ男でござる

     それで静かな男でござる
     人の心を
     よく判って
     黙って微笑む男でござる

     何も
     出来ない男でござる
     冷く 澄んだ男でござる
     小さい庵の男でござる

     彼は
     まだまだ若いのでござる
     立派な知恵はその頭でござる
     眼玉のするどい男でござる
         (同志社高商学友会誌・昭和三年)

静雄二十二才の時、大阪三越が懸賞募集した児童映画脚本に応募、童話「美しい朋輩達」が一等に当選し映画化された。(映画の題名は「美しき朋輩たち」)このときの賞金一千円で念願の子規全集・世界童話全集を購入している。卒業論文「子規の俳論」は最高点を得て昭和四年、京都大学を卒業、同年四月大阪府立住吉中学校(現住吉高等学校)に就職した。この頃から福田清人・蒲池歓一(大村中学校同窓生)の誘いで同人誌に参加し詩作品を発表することになる。昭和七年父の死による負債の相続や、諫早の実家の売却、そして結婚と生活者として多忙を極めるが、自己の運命とも言うべき詩道への道を潔く踏み出した決意の年でもあった。

     太陽は美しく輝き
     あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
     手をかたくくみあわせ
     静かに私たちは歩いていつた
     かく誘ふものの何であろうとも
     私たちの内の
     誘はるる清らかさを私は信ずる
        「わがひとに与ふる哀歌」より

昭和九年「コギト」に発表した「わがひとに与ふる哀歌」は萩原朔太郎の目にとまるところとなり、翌年処女詩集として刊行され詩壇の注目を集めた。出版記念会が新宿の焼き鳥屋で行われたが、出席者は萩原朔太郎・室生犀星・三好達治・丸山薫・中原中也・保田与重郎・檀一雄・立原道造・太宰治・辻野久憲等であった。

席上静雄の詩の評価をめぐって朔太郎と三好達治とが激しく対立した。朔太郎の過激な推称の辞に対し三好達治が反発したのである。朔太郎第一の門下生と自認する者にとっては我慢できぬことであった。この事があってから、静雄と三好達治との仲もしっくりいかなくなり真の意味で和解したのは、静雄逝去後、「伊東静雄君を悼む」の一文であった。「私は当時伊東の歌風には少しく同感を欠いた。反感とまではいわないまでも、少し彼の歌ひつぷりが演説口調に聞こえるような心もとなさと、ある空々しさ、いい気らしい一足とびのかげの脱落とを感じた。私の不敏と低さとから、と今はさういひ改めなければならない。」「これは萩原さんにも、伊東自身にも、又桑原君にも大変すまないことであつた。」桑原君とは桑原武夫のことで静雄のよき理解者の一人であり、静雄と三好の不仲を心配し事あるごとに労をとってくれた文学者である。

静雄逝去後、諫早公園中腹に静雄の詩碑建立に奔走した上村肇(諫早在住)は詩碑の揮毫を桑原武夫に諮り、三好達治に依頼した。三好は二つ返事で快諾し昭和二十九年、三好達治選・揮毫による詩碑は完成を見た。詩碑には

     手にふるる野花は
     それを摘み
     花とみづからを
     ささへつつ
     あゆみをはこべ

この詩文は昭和十四年「知性」に発表された「そんなに凝視(みつ)めるな」の一文である。静雄の詩観を表現する好個のものとして、又文化性の欠乏した故郷に対し、「歩きつつ道の花を摘む楽しさ、沢山の自然に感謝しよう。ほほえみは自然とあなたとを支へる唯一のもの。風と光の中に身を委ねよう。」と詩人の心をおくったように思える。三好達治が躊躇なくこの一文を選択したことは静雄の詩の本質を理解してのことだろう。詩碑竣工の折には姿を見せなかった三好は数年後、詩碑の前に野花を置いた。

静雄の処女詩集「わがひとに与ふる哀歌」は第二回文芸汎論賞を受賞し、日本浪漫派を代表する詩人となった。この地諫早から中央詩壇で認められるような詩人が生まれようとは誰しもが思わなかったに違いない。当時静雄の詩が郷里の人に読まれること、理解されることは少なかった。

     こうして此処にね転ぶと
     雲の去来の何とをかしい程だ
     私の空をとり囲み
     それぞれに天体の名前を有つて
     山々の相も変らぬ戯れよ
         「河辺の歌」より

この作品の川辺とは何処の河辺かはこれまで不明であった。諌早・本明川であれば、どこかにその事実が隠されているはずである。そのヒントは「それぞれに天体の名前が付けられた山々」の箇所である。昭和32年諌早大水害以降本明川は改修され、下流域も拡張された。葦原の続く本明川下流から眺望される山々は、眩しいほどの輝きで多良岳と雲仙岳が向かい合っている。平成2年約200年ぶりに噴火した普賢岳の一部に溶岩ドームが望まれる。両山の裾野が有明海に姿を消すあたりに本明川も尽きている。雲仙岳は国見岳・妙見岳・普賢岳の総称である。北極星のことを古くは北辰・妙見あるいは北辰妙見などの名が用いられ、近世に入ってから北極星と呼ばれるようになった。天体の名前が付けられている山々とは、雲仙岳のことだったのである。まさしく「河辺の歌」に登場する川辺とは故郷・本明川のことだったのである。
諫早公園の頂上からは、多良岳の峰が一望されそこに水源を発する本明川が市外を蛇行し有明海に注ぐ。静雄は最後まで大阪の地から望郷の念を抱き続けた。
     緑の島のあたりに
     遥かにわたしは眼を放つ
     夢見つつ誘(いざな)はれつつ
     如何にしばしば少年等は
     各自の小さい滑板(すべりいた)にのり
     彼の島を目指して滑り行つただろう
     あゝわが祖父の物語り!
     泥海深く溺れた児らは
     透明に 透明に
     無数なしやつぱに化身をしたと
           「有明海の思い出」より

昭和十四年静雄は「立原道造君と私」という文章の中で故郷のことを次のように記している。「長崎県に入ってからの汽車旅行は、大村湾を沿うた線と、新しく別に開通した有明海の線と、二つのうちどちらを選んだだろうなどと考えていた。大村湾は日本の地中海だと云われるほどで、明澄で静穏でしかも快活だから、そちらの方が君の趣味に合うかも知れない。或いは一生忘れられない印象を受けるのぢやないかとも考えた。しかしわたしの趣味と馴染の方からいふと、有明海をぜひ見せたいと思つた。沈鬱な中に一種異様な、童話風な秘密めいた色彩と光が交りあつて、これはまだ日本の詩人も画家も書いていないものだ」と紹介している。

     自然は限りなく美しく永久に住民は
     貧窮してゐた
     幾度もいくども烈しくくり返し
     岩礁にぶちつかつた後に
     波がちり散りに泡沫になつて退きながら
     各自ぶつぶつと呟くのを
     私は海岸で眺めたことがある
           「帰郷者」より

諫早はその昔、伊佐早と呼ばれた。静雄の詩碑の建つ諫早公園は高城(たかしろ)と云い一四七〇年代宇木(有喜)の豪族であった西郷尚善(なおよし)が伊佐早を平定し築城した所である。その後西郷氏の居城として百年以上続いた一五八七年三代領主西郷純尭(すみたか)の時、台頭した豊臣秀吉は一気に天下を手中に収めようとし加藤清正らに島津公(薩摩)の征伐を命じた。この命は当然純尭にも下ったが戦火を避け治世に専念する為、秀吉の命を拒絶した。秀吉何するものぞの気概もあったに違いない。立腹した秀吉は九州平定後、柳川の武将龍造寺七郎左衛門家晴に西郷討伐を指示し、成就の際には伊佐早の地を与えることを約束した。両勢攻防の白兵戦が展開され、本明川の流水は血に染まった。弓折れ矢尽きた西郷勢の多くの武将は城内で討死、悲壮な自害を遂げて落城した。家晴は秀吉から二万三千石の所領を受け伊佐早藩主となったが、二代直孝の時度重なる水害に見舞われ財政的に行詰まり、隣接の佐嘉鍋島藩の支藩となり家老分となって姓も諫早と改めた。

爾来諫早の武士も百姓も商人も、鍋島藩の圧政に泣かされることになる。干拓からなる肥沃な諫早平野を領しても、三百年に及ぶ鍋島藩の搾取に細々と生き伸びるしかすべのない状態であった。我慢に我慢を重ねたが、一七五〇年(寛英三年)百姓一揆が起こった。通常は藩主に対し一揆を起すものだが、諫早百姓一揆は藩主をかばって鍋島本藩の不当な仕打ちに抗議した全国でも類のないケースであり、当時一万四千人が参加した大規模なものであった。しかし鍋島軍勢により鎮圧され首謀者を始め多くの人が処刑され一揆は終りを見た。
その後江戸時代後期から諫早には次のような唄が歌われている。

     芝になりたや
     箱根の芝に ヤレ
     諸国諸大名の
     敷き芝に
     ノンノコサイサイ
     シテマタサイサイ

権力者に逆らうことをやめて、ただひたすらにご加護を願うしかない。貧しい生活の詩である。両手に小皿を持ち、カチカチならして踊るさまは忍従の気持ちのはけ口だったのか、或いは鍋島藩主が大切にした佐賀平野にのみ生息する鵲(かささぎ)のカチカチと鳴く声を真似て恭順を表したのであろうか。その後大正の時代になっても、狭い地域共同体から生まれる消極的な排他性、封建制が色濃く残り、家の格や、職業に差別が見られた。時として卑屈なほどの丁重さで身分の違いを表すことがその時代の生き方であった。
諫早平野に注ぐ本明川が頻繁に氾濫し家屋、田畑のみならず人命までも奪われる歴史の繰り返しに、諫早の貧しさは変わらなかった。
静雄の少年時代、父惣吉は家畜の仲買人から木綿問屋を営んだ。昭和七年父の死後、相続された多額の負債返済に苦しむことになる。

   そうだ、わたしは今夢をみてゐたのだ。 故里の吾古家のことを。
   ひと住まぬ大きな家の戸をあけ放ち、前栽 に面した座敷に坐り
   独りでわたしは酒をのんでゐたのだ。夕陽は深く廂に射込んで、
   それは現(うつつ)の目でみたどの夕影より美しかつた、
   何の表情もないその冷たさ透明さ。
   そして庭には白い木の花が、夕陽の中に咲いてゐた.
               「夢からさめて」より

この作品は、静雄が大阪市内から妻の勤務地に近い堺市三国ケ丘町に転居した時のものである。故郷の古家を偲び、亡き母を悲しむ一篇である。

             燕
   門(かど)の外(と)の ひかりまぶしき 高きところに 在りて 一羽
   燕ぞ鳴く
   単調にして するどく 翳(かげり)なく
   あゝ いまこの国に 到り着きし
   最初の燕ぞ 鳴く
   汝 遠くモルツカの ニユウギニヤのなほ遥かなる
   彼方の空より 来りしもの
   翼さだまらず 小足ふるい
   汝がしき鳴くを 仰ぎきけば
   あはれ あはれ いく夜凌げる 夜の闇と
   羽うちたたきし 繁き海波を 物語らず
   わが門の ひかりまぶしき 高きところに在りて
   そはただ 単調に するどく 翳なく
   あゝ いまこの国に 到り着きし最初の燕ぞ 鳴く

昭和十五年第二詩集「詩集夏花」の巻頭を飾った作品である。後年三島由紀夫が師とも仰ぐ静雄から、自分が冷たく拒絶されていたことを知り、憎悪にも近い気持ちを持ちながらも一等に推した作品である。昭和十九年十九才の三島は処女作「花ざかりの森」の序文を乞うために住吉中学校の静雄(三十八歳)を訪れた。静雄はその日の日記に「学校に三時ごろ平岡(三島)来る。夕食を出す。俗人。」と記した。又数日後「平岡からの手紙、面白くない。背のびした無理な文章」ときめつけ、静雄は何故か冷淡であった。三島の懇願も空しく序文は拒絶された。しかし三島は静雄の心のうちを判らぬままこの小説の後記に「わがひとに与ふる哀歌の伊東静雄氏は私が少年時代から、稀有なロマンティストとして懐しみうやまつてきた詩人であつた。古き世の陵(みささぎ)に程近い堺の御宅で、氏が萩原朔太郎を語り、国学における考証の用を語り、詩人の本質的な教養について語られる時、氏の眼差しが涼しくもえさかるさまは美しかった。暗い甃道を駅まで送つて下さりながら『僕はちよつといぢけたのが好きですね。物を言つてフッと人の顔をみるやうな』と云われたのがふしぎにありありと思い起される。」後年さらに三島は「日本の近代詩人のなかで、伊東静雄氏は私のもっとも敬愛する詩人であり、客観的に見ても、一流中の一流だと思ふ。(略)伊東静雄氏の詩は私の青春の師であった。」と記している。静雄逝去後、公刊された日記のくだりで「俗人」と決め付けられていたことを知り、驚愕と失意を覚える。「伊東静雄氏を悼む」の一文に「俺が声のかぎりに叫んだ場所であの人は冷笑を浮かべ黙つてゐた。俺が切実に口をつぐんでゐたときに、あの人は言ってはならない言葉を言つた。」と記した。

手紙だけで背伸びした文章と断言し距離を置くようになったとは考えにくい。三島の育った上流家庭への生理的ないまいましさや、三島の過剰に早熟を感じさせる自意識の強さ、饒舌さに自分とは肌合いが違うものを感じたからであろう。「ちよつといぢけたのがすきですね」の一言はまさに諫早人の言葉であり、静雄がそれまで歩いてきた人生でもあった。静雄が三島由紀夫のことを昭和二十一年酒井百合子宛の手紙の中に記している。「三島といふのは、僕が云つてゐたその人です。このごろ小説方々に書いています」 静雄と三好達治、静雄と三島由紀夫の関係は、理性を超えた人間的な感情の綾から生じたものであった。

静雄が生まれ育った諫早市厚生町四二七番地のすぐ傍に祠(ほこら)がある。お地蔵さんが祭られていて、今でも花と水は近所の人が毎日取り替える。静雄の母ハツもこの祠に手を合わせ子供の将来を願った。祠の横には大きな松の木がありこの一帯を、這松の下(ひやーまつのした)と呼び、諫早から島原に抜ける幹線道路であった。幼少の静雄にとって、小さい祠は母と共に手をあわせた場所であり、その背後を流れる倉屋敷川で、シジミ貝をとった。近所の幼きもの同士が貝の大きさ、数を競い合う祝祭であった。その流水は鎌倉時代からの干拓地、諫早平野を潤してきた。家の二階から諫早平野を一望できた。菜の花や蓮華が道端に咲き季節の変化を教えてくれた。

     立木の闇にふはふはと
     ふたつ三つ出た蛍かな
         「蛍」より

本明川の恵みを受けて、川の流れるところ蛍が舞った。静雄の家の軒先や庭にも、毎年初夏の夕闇に姿を現した。

昭和二十一年、南河内郡黒山村北余部四〇七、現在の南河内郡美原町北余部に居を移した。この頃静雄の家を訪れた庄野潤三や島尾敏雄、亀山太一は、異口同音に「本当に、戸も障子もない小さな納屋の一部という感じ、」「あれは家ではありませんね」と評している。静雄自身も「家が、屋根と柱だけで、満足に戸障子のない廃屋なので、この冬はこたえました。」書簡を送っている。

しかし又「私はこのごろ田舎に一軒家を見つけて移り住み、安楽な気持ちで一年ぶりに自由な生活が出来喜んでいるところです。」とも吐露している。家は粗末であり、暮らしは貧しく通勤も不便ではあったが、北余部の地は故郷諫早と酷似していた。平野が広がり牧歌的な風土は静雄を慰めた。「広々とした田圃の中で、雲が美しく、毎夕方、下駄をやつとはきなれた夏樹(注長男)をつれて、散歩に出ます。」家を出た十字路に小さい地蔵の石の祠(ほこら)があり、小川にかかる石橋は久しく忘れかけていた故郷の原風景を追想させ、堰を切ったように数々の作品がうまれた。そして昭和二十二年、第四詩集「反響」が編まれた。

      夕映

   わが窓にとどく夕映は
   村の十字路とそのほとりの
   小さい石の祠の上に一際かがやく
   そしてこのひとときを其処にむれる
   幼い者らと
   白いどくだみの花が
   明るいひかりの中にある
   首のとれたあの石像と殆ど同じ背丈の子らの群れ
   けふもかれらの或る者は
   地蔵の足許に野の花をならべ
   或る者は形ばかりに刻まれたその肩や手を
   つついたり擦つたりして遊んでゐるのだ
   めいめいの家族の目から放たれて
   あそこに行われる日日のかはいい祝祭
   そしてわたしもまた
   夕毎にやつと活計からのがれて
   この窓べに文字をつづる
   ねがはくはこのわが行いも
   あゝせめてはあのような小さい祝祭であれよ
   仮令それが痛みからのものであつても
   また悔いと実りのない憧れからの
   たつたひとりのものであつたにしても

昭和二十四年肺結核発病、河内長野の国立病院、長野分院に入院。病室から望める河内平野一面の菜の花を愛で、諫早から送られた見舞いの「おこし」を口にしながら、「君のような詩人にとって、いまその町は、どんな住み心地であろうか。その土地はこの詩人にどんな目をむけているであろうか。(略)私はこんな詩人にとって、自分の故郷が少しでも住み心地のよい、あたたかなところであることを願わずにはをられない。二十年以上も不在の故郷の地ではあるが、やはり君に対してそんな責任のようなものを感ずるのである」と諫早在住の詩人上村肇の詩集「みずうみ」に序文を寄せた。病室から諫早を偲びながら故郷の詩人に対しこまかな心遣いをみせる静雄は三年半病臥し、昭和二十八年三月十二日逝去した。遺骨は花子夫人の手に抱かれ、童話風な秘密めいた色彩と光が交じり合った有明の海に迎えられ永久の帰郷となった。享年四十七歳の生涯であった。

諫早に菜の花が咲き、本明川の水が温み始める三月最後の日曜日「菜の花忌」が詩碑の建つ諫早城址で行われる。碑前には、菜の花と静雄が生前好きであつたビール瓶がおかれ、回を重ねるごとに一本増えてゆく。

                                             完

 文献
  伊東静雄論考 小川和佑
  伊東静雄研究 富士正晴
  詩人、その生涯と運命 小高根二郎
  伊東静雄と大阪・京都 山本皓造
  痛き夢の行方 伊東静雄論 田中俊廣
  詩誌 河
  詩集 みずうみ 上村肇

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