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生涯(年譜)

静雄・りつ・寿恵男の三兄弟
中央静雄・右妹りつ・左弟寿恵男

静雄・寿恵男
弟・寿恵男と

静雄・寿恵男
旧制佐賀高等学校正門

静雄・寿恵男
手前静雄 イッヒ、ビン、アインザーム

佐賀航行時代の学友と
佐賀高校時代(後列右から2人目)

静雄と酒井家家族(姫路)
昭和3年
姫路の恩師・酒井家で。
静雄、酒井フミ、酒井小太郎
安代、百合子(→)


新婚時代 妻花子と
昭和7年
新婚時代 妻花子と


伊東静雄・34才
昭和15年頃 34才

長男夏樹と
長男夏樹と

松虫通の文学碑除幕式(花子夫人・井上寿恵男)
S59/3松虫通の文学碑の除幕式
花子夫人と井上寿恵男氏


静雄の生家跡(諌早市厚生町)
静雄生家跡(中央)
(この建家も取壊され現況は空地)
諫早市厚生町



広福寺
静雄が眠る諫早市船越町の広福寺

伊東家の墓地
諫早広福寺にある伊東家の墓

諫早公園内の静雄文学碑
諌早公園の伊東静雄文学碑

住吉高校校庭の文学碑
住吉高校校庭の文学碑

松虫通の文学碑
阿倍野区松虫通りの文学碑
諫早市内鷲崎交差点の文学碑
諫早市内鷲崎交差点の文学碑
堺市旧堺燈台下の文学碑
堺市旧堺燈台下の文学碑
明治39年(1906) 12月10日 長崎県北高来郡諫早町船越名427番地(現諫早市厚生町)に生まれる。父伊東(旧姓榎並)惣吉、母ハツ(旧姓内田)の四男。兄栄一、潤三、岩蔵はいずれも夭折したため、静雄が嗣子となる。姉ミキ、妹りつ、弟寿恵男がいる。父惣吉は榎並家から伊東家の養子となった人。伊東家は家畜仲買業から後に木綿商に転業、静雄の幼少時代は極めて裕福であった。

大正2年(1913)4月 諫早村尋常小学校(現諌早小学校)入学。学業は良く出来たが、体操嫌いの虚弱の子供であった。 7歳

大正8年(1919)4月 長崎県立大村中学校(現大村高校)入学。汽車通学をする。当時、文芸部に福田清人、蒲池歓一、陣之内宣男、のちに川副国基らがおり、部誌「玖城」を発行していたが、静雄はこれには関係をせず、真面目な勉強家で、とくに目立つところもなかった。 13歳

大正12年(1923)4月 佐賀高等学校(現佐賀大学)文科乙類に入学、ドイツ語を学ぶ。 島木赤彦の短歌を愛読。 17歳

大正13年(1924)4月 諫早女学校より同郷の先輩酒井小太郎赴任。その知遇を受ける。18歳

大正15年・昭和元年(1926)4月 京都帝国大学(現京都大学)文学部国文科入学。京都市上京区田中門前町25番地 西川鉱作方に下宿。その後、上京区寺町・上京区吉田上大路・左京区聖護院西町と下宿を変える。
在学中からドイツ・ロマン派の詩人ヘルダーリンに傾倒し、その作品と参考文献を多く収集。この頃はまだ創作活動はなく、短歌をいくつか詠むにどどまった。
7月、帰省の途次、姫路の酒井家をを訪問。酒井家には二人の娘があり、姉安代は静雄と同年、妹百合子は4歳下の16歳であった。  20歳

昭和2年(1927)5月 夏頃よりしきりに短歌を習作する。
11月 黒谷瑞泉院で行われたアララギ歌会に出席、同席の歌人たちに失望、以後アララギへの関心を失う。21歳

昭和3年(1928)4月 諫早出身の英文学者で佐賀高校時代の恩師・酒井小太郎が、家族と共に京都市今熊野南日吉町に転居したので足繁く訪問、同家と親しく交わるようになる。
10月 大阪三越が御大礼記念に懸賞募集をした児童映画脚本に応募して、童話「美しい朋輩達」が一等当選し、賞金1千円を獲得。同月末、撮影打合せのため上京。
12月 「美しい朋輩達」が松竹で映画化された。題名は「美しき朋輩たち」全国一斉上映。
萩原朔太郎の「詩の原理」読み、感動。 22歳

昭和4年(1929)3月 大学を29人中3番で卒業。卒業論文「子規の俳論」は首席を得た。以後恩師穎原退蔵の注目するところとなる。
4月 大阪府立住吉中学(現住吉高校)に就職し。大阪市住吉区北田辺町、宮地方に転居。生涯教職を離れなかった。月給110円。小さな痩せた身体つきの、もじゃもじゃ長い髪をした黒い古背広の新米教師にこのブルジョワ学校の生徒達は「乞食」と渾名をつけて騒いだ。そのご、教え子の一人・米在住の元米プリンストン大学教授下村脩博士(2008年ノーベル化学賞受賞)は愛敬をこめて「コーちゃん」と呼んでいたと語る。 
12月、チェーホフ、ゴーリキー、ツルゲーネフなどを耽読。  23歳

昭和5年(1930)5月 同人誌「明暗」に加わり、詩「空の浴槽」を発表。 24歳

昭和7年(1932)2月 父惣吉没す。家督を相続し、父の残した多額の借財をその後長い年月をかけて返済する。
この頃音楽への関心を深め、また、リルケの詩に魅かれる。
3月 保田與重郎、田中克己ら「コギト」を創刊。
4月 堺高等女学校の地理教諭・山本花子(25才 奈良女高師出身)と結婚。使い古した小机と本の山とレコードだけが財産であった。大阪市住吉区阪南町中3-20に新居を構える。花子は結婚後も教員を続けた。
6月 青木敬磨と同人誌「呂」を創刊し、詩「公園」を発表。 26歳

昭和8年(1933)3月 「コギト」の保田與重郎、田中克己らが、「呂」誌上の静雄の詩に注目して寄稿を求め、「呂」6月号に発表の「病院患者の歌」を「コギト」に再発表。「コギト」同人たちとの交遊が開ける。 27歳

昭和9年(1934) 夏ごろより次第に「呂」を離れ、「コギト」に移るが、同人にはならなかった。
11月 「コギト」に発表した「わがひとに與ふる哀歌」に萩原朔太郎が賞賛の手紙を寄せる。28歳

昭和10年(1935)3月 「日本浪漫派」創刊
4月 第2号より同人となり、このころ桑原武夫を知る。
10月 保田與重郎の尽力を得て、処女詩集「わがひとに與ふる哀歌」をコギト発行所より300部刊行。、萩原朔太郎の激賞をうけ、翌年これにより第二回文芸汎論賞を受賞し、一躍詩人としての名声を高めた。
11月 詩集の出版記念会が新宿で開かれ、上京して出席。散会後、当夜は中原中也の家に一泊。 29歳

昭和11年(1936) 1月 長女まき生まれる。
2月 母ハツ急逝。
3月 「わがひとに与ふる哀歌」第二回文芸汎論賞を受賞
12月 耳原御陵近くの堺市北三国ヶ丘町40へ移る。 30歳

昭和13年(1938)7月 創刊された「文芸文化」に「金星」「稲妻」を発表。再び落ち着いた創作活動が始まる。

昭和14年(1939)2月 「文芸文化」の池田勉、栗山理一らと往来。しきりに東京への転職を考え、恩師穎原退蔵に依頼する。
3月下旬上京。保田與重郎、田中克己に会い、朔太郎を訪問。この上京中、立原道造の死に会う。33歳

昭和15年(1940)1月 河出書房「現代詩集」第二巻(静雄の詩23篇収録)刊行。
3月 第二詩集「詩集夏花」を文芸文化叢書の一冊として子文書房より刊行。好評で初版1500部を売り切る。

昭和16年(1941)1月 「四季」の同人となる。
3月 住吉中学の教え子であった庄野潤三の訪問を受ける。庄野は「僕はその日から伊東静雄という一個の人間に完全に魅せられてしまった」と記している。 35歳

昭和17年(1942)3月 萩原朔太郎の病気見舞いに上京。2日間訪ねたが面会できなかった。
5月 萩原朔太郎死去。同月「詩集夏花」により第5回北村透谷賞受賞。
8月 亡母7回忌の墓参のため10年ぶりに帰郷。36歳

昭和18年(1943)8月 長男夏樹生まれる。
9月 第三詩集「春のいそぎ」を弘文堂書房より刊行。 37歳

昭和19年(1944)5月 三島由紀夫、伊東を住吉中学校、及び自宅を訪ね「花ざかりの森」序文依頼。38歳

昭和20年(1945)3月 妻子を南河内郡菅生村に疎開させ、堺の家には静雄と妹りつが留まる。
7月 堺市空襲によっ罹災。南河内郡平尾村に移る。
8月 終戦。
11月 大阪を引き払い帰郷することを考える。39歳

昭和21年(1946)2月 大阪府南河内郡黒山村北余部407へ移る。
9月 林富士馬、庄野潤三、島尾敏雄ら同人誌「光耀」創刊。
10月 「光耀」に戦後初の作品「都会の慰め」を発表。永い間模索していた詩作の道がやっと開けて立ち直る。 40歳

昭和22年(1947)5月 「私は大元気、色々考へ、計画し(詩作のこと),又読書しています。そして楽しい。色彩ある気持ちでいます」(手紙)
11月 第四詩集「反響」を創元者社より刊行。次第に散文的描写に変化しつつ、一段と内面的静かさと高みを獲得していった。 41歳

昭和23年(1948)4月 学制改革のため阿倍野高等学校に転勤となる。
6月 「いやな世なので学校と家を往復するだけで、出来るだけ人の中にも出ず、友人とも離れて暮らしています。・・・・深い深いところで(戦争の)打撃が大きかったのだということが日増しに強く感じられてゆきます。(手紙)  夏休み中「恐ろしい程の虚脱衰弱状態」で寝込む。既に肺浸潤に冒されていた。 42歳

昭和24年(1949)6月 肺結核を発病。
10月 国立大阪病院長野分院に入院し、闘病生活は最期まで続いた。43歳

昭和26年(1951) 入院生活。
4月 毎日新聞の求めに応じ、詩「倦んだ病人」を書く。
12月 朝日放送の療養者の時間で伊東の詩が朗読される。 45歳

昭和28年(1953)1月 やや体力を回復し、「文芸春秋」に「長い療養生活」を書く。
2月 突然大喀血。衰弱は日増しに加わる。腕、肩、股、打てるだけの箇所に注射器が刺さる。3月12日午後7時42分、46.3才で肺浸潤で死去。 郷里諌早市船越町の広福寺に埋葬される。法名・文林院静光詩仙居士。
7月 病床を慰めるため企画された桑原武夫・富士正晴編の「伊東静雄詩集」が創元社より刊行される。 47歳

昭和29年(1954)11月 諫早城址(現諌早公園)に詩碑が建立される。
詩碑には、詩集「反響」 そんなに凝視めるな から、詩人・三好達治揮毫の(手にふるる野花はそれをつみ、花とみづからをささへつつ、歩みをはこべ)が刻まれている。

昭和57年11月 大阪市阿倍野区北畠2-4-1 住吉高校校庭に詩碑建立。「わがひとに與ふる哀歌」から 曠野の歌が刻まれた。

昭和59年3月 大阪市阿倍野区松虫通り2丁目3に碑文「春のいそぎ」から 百千の の詩碑がある。

昭和62年 諫早市鷲崎交差点の角に咏唱の碑がある。

平成19年7月19日 大阪府堺市、史跡旧堺燈台下に「詩集夏花」から燈台の光をみつつの詩が刻された詩碑がある。



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